それはただのダイエット茶さ
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創業融資

創業融資を受けたいと考えています。創業融資というのは、日本政策金融公庫などから
創業時にかなり有利な条件で融資を受けるというものです。
今日は書店で創業融資の本を買って、電車内では三木清の文章を読んでいました。
『論語』は、幾多の書からの引用文から成っている観のある『教行信証』に引用されている唯一の外典である。このことは親鸞がいかに論語を重んじていたかを示すものであろう。したがって彼は世間の法については論語によるべきことを教えたと解することができる。
 さて論語からとられた文は、「季路問、事鬼神。子曰。不能事。人焉能事鬼神。」であり、「季路とわく、鬼神につかえんかと。子のいわく、つかうることあ たわず、人いずくんぞよく鬼神につかえんやと。」と読ませている。しかるに『論語』「先進篇」(第十一)ではこの文は「季路問事鬼神。子曰。未能事人。焉 能事鬼。」であり、「季路、鬼神につかうるを問う。子いわく、いまだ人につかうることあたわず、いずくんぞよく鬼につかえん。」と読ませ、まだ人間に対し てさえつかえることのできない者がどうして鬼神につかえることができようかという意味に解せられる。しかるに親鸞は後の「鬼」とあるのを「鬼神」とし、 「未能」の二字を「不能」と改めた上、「未能事人。焉能事鬼。」を「不能事。人焉能事鬼神」と読みかえさせている。これによって、季路が鬼神につかうべき であるかと尋ねたのに対し、孔子は、つかえることができない、人間は鬼神以上のものであるから、人間より低い鬼神につかえ得るはずのものではないと答え た、と解するのである。
創業融資の事業計画書についてあれこれ考えながらさらに三木清の著作権切れの文章を読みました。
もちろん直接的には創業融資と何の関係も無いですが、行間を読むと見えてくるものがあります。この引用に先立って彼は種々の文を挙げて鬼神をおと)し めているのである。彼は当時の仏教がこの世の吉凶禍福に心を迷わし、卜占祭祀を事とし、迷信邪教に陥っていることに対して鋭い批判を向けた。『愚禿悲歎述 懐』には「五濁増のしるしには この世の道俗ことごとく 外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり」といい、また「かなしきかなやこのごろの 和国の 道俗みなともに 仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す」といっている。そこで親鸞は諸経典を根拠として真実の教と虚偽の教とを分別し決著して外教 邪偽の異執を教誡する。『涅槃経』には「仏に帰依せん者はつゐにまたその余のもろもろの天神に帰依せざれ」といい、『般舟三昧経』には「みづから仏に帰命 し、法に帰命し、比丘僧に帰命せよ。余道につかふることをえざれ、天を拝することをえざれ、鬼神をまつることをえざれ、吉良日をみることをえざれ。」と いって、仏教徒の帰依すべきはただ仏と法と僧との三宝であり、もっぱら仏道につかえて、天を拝したり、鬼神をまつったり、日の吉凶を卜したりするがごとき ことをしてはならぬと教えている。かかる迷信は仏教の否定するところである。念仏者は鬼神を畏れることを要しない。「念仏者は無礙の一道なり。そのいはれ いかんとならば、信心の行者には天神地祇も敬伏し、魔界外道も障礙することなし。罪悪も業報も感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆへに、無礙の一 道なりと云々」と『歎異鈔』には記されている。迷信は何によって生ずるのであるか。『華厳経』には「占相をはなれて、正見を修習せしめ、決定してふかく罪 福の因縁を信ずべし。」とある。迷信の生ずるのは正見を欠き、罪福の因縁を信じない故である。罪福の因縁を信じない者は、自己の幸不幸を天や鬼神の星辰の 力によるものと考え、かくして天を拝したり、鬼をまつ)っ たり、星を占ったりする。しかし彼らははたして真に超越的なものに帰依しているのであろうか。彼らが天や鬼神を畏れるのは自己のこの世における感性的な幸 福を求めるためである。彼らは我愛、我慢のこころを離れず、我に執著している。『起信論』には「外道の所有の三昧は、みな見愛我慢の心をはなれず」といっ ている*。かくして迷信の根拠は我愛、我慢のこころであり、我を超越した天や鬼を拝している者は実は我を拝しているのである。それらの天神や鬼神が擬人的 に表象されるのも当然である。
創業融資について、また発見があったらお知らせしますね。